はるをみはる-8

 望くんの、控えめな声が聞こえる。彼はすぐに自分の頭をぐしゃぐしゃ掻いた。言ったことをごまかすみたいに。
 なんだか胸が苦しくなった。スープなんか待てない。あたしは、息継ぎするシンクロの選手みたいな勢いでベランダに出た。
 台所と反対側のこっちからは、満開の八重桜が見えた。濃いピンク色が豊作、って感じで枝にたわわに生っている。春だなあ、と思った。どうしようもなく春なんだな。ぽかーんとしちゃうほど。
 陽射しがあったかい。空気は、まるで栄養があるんじゃないかっていうぐらい濃くて美味しい。いろんな花の匂いが溶けているから。
 あんなに春が待ち遠しかったのに、来てしまうとなんてことはない。春が来たらいいことがある、行きづまってることもみんな片がつく、なんとなくそう思ってた。就職活動もうまくいくし、お母さんの鬱もよくなるしあたしの冷え性も偏頭痛もよくなる。クサクサした気分もぜんぶ晴れる。根拠もなく、そう決めてた。なのになんにも変わってない。ひどくなってたりする。春なんて、味わって楽しもうと思ったら終わってる。毎年そうだ。
 で、この春もすぐ終わる。これがあたしの人生だって気がした。少しずつ失っていく。死ぬまで春が楽しめないんだ。もったいない。バカみたい。
 ぺらっ、という紙を捲るような音が聞こえた。あたしは不思議に思って辺りを見た。なにもない。なんだろう。
 またぺらっ、と音がした。上を見る。
 アパートの上の部屋の人みたいだ。
 花を見ながら、読書でもしてるんだろうか。あたしはどうしてもその姿が見たくて、首をできる限り延ばす。でも、ベランダのなかは見えなかった。なのにぺらっ、ぺらっという音ははっきり聞こえた。
 捲る音のテンポはまちまちだ。飛ばし読みしているのかと思ったらしばらく聞こえなくなる。じゃあいなくなったのか、と思うとぺらっと聞こえて、相変わらず読んでいるのが分かる。
 あたしが読まれてるんじゃないか。不合理なことを思った。上の階の人は男か女かも判らないけど、あたしの人生を読んでるところだ。さぞかし詰まらない人生だなと退屈してるだろう。それでも、春のなかでそれなりに気分良く読書を楽しんでる。
 ちょっとぐらい裏をかいてやりたい。お話の最後ぐらい驚かしてやりたい、と思いながら手すりに凭れてじっとしていた。思ってるだけだ。結局なにもしない。できない。どうせ卒業後のあたしも、つまらない道を歩いているに違いない。

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